日本人的な仕事観⇔日本人的な教育観?
前の記事で触れた≪日本人的な仕事観≫とはなんなのだろう。
よく、〈日本のビジネスはビジネスになってない。〉と考えることがある。
利益を求めて最も効率の良い選択をしていく、というスタイルではないことが最大の理由である。
社長の言うことは絶対だし、より良い方法よりも上司の意見が優先される。
年齢やキャリアによって給料が決まりがちだし、能力がなくでも年功序列で昇進していく。
女性が働きづらく、〈長時間働くこと≒頑張ること〉という図式で物を考える人がいる。
そのくせ、若者には苦労をさせようとし、自分と同じ体験をさせようとする。
自分では、仕事にやりがいとか楽しみとかを見つけられれば相乗効果がありいいのかもしれないが、上から目線で〈仕事にやりがいを感じろ〉というのは全く意味のない考えだなあ、と思う。
仕事での自己実現が難しくなってきている時代にはそぐわない。
(書いていてこの表現を思い出した↑マズロー?)
調べたら結構いい記事があった。
仕事では、〈(自分の能力を生かして)どうやってお金を稼いでいくか〉という所に焦点を当てたほうが良いと考えている。
仕事に対する価値観も個人の価値観であるため、そこに介入すべきではないと思う。
これを考えたとき、下の話に続くのである。
◆日本人の教育観
日本人の仕事観について考えていた時、「確かに個人のプライベートとか価値観にまで踏み込んでくる人はたくさんいるなあ」とか、
「女性にはうまく立ち回れる人が多いよな。シューカツでも女性の方が内定率が良いとか人事の評価が良いという話を聞くし。自分のことを相談できない男は多い。コミュニケーション能力というのはこういう所かも。」 とか考えた。
そして、日本人的な仕事観には、もしかして〈日本人的な教育観〉というものが大きく関わっているのではないかという考えに落ち着いた。
よくよく調べてみると、こんなことが一番最初に出てきて、一気に納得してしまった。
日本の学校は生徒の個人の生活面まで指導を行うのが一般的であるのに対し、西洋の学校は個人の生活面には立ち入らず、もっぱら知識の習得のみに努めるのが常である。
確かに日本のガッコウでは、生活態度などを厳しく注意するような風潮があり、軍隊的な所がある。
なんでこんなに人格教育を行いたいんだろう。
教育基本法にも書かれていることだから、何か目指すものがあるのだろうな。
時代にそぐわない何かを
結局は「日本は島国でムラ社会だからお互いに助け合って云々・・・」という話になるのだろうか。
ここを少し研究していってみたいと考えつつ、これを考えると、キリスト教、教育基本法、宗教、ホッブス、ルターと話が止まらないなーと思うのであった。タイヘンだ。
さて、次はなんの仕事をしよう。
本質を見極められる人と仕事がしたいなあ。